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1. 最近、ふと思ったんだよね。
ねぇ、たまにない?
ふと立ち止まって、「私、なんでこんなに頑張ってるんだろう?」って思っちゃう瞬間。
仕事もそこそここなしてるし、周りから見ればちゃんとしてる「大人」かもしれない。でも、心のどこかにずっと、モヤモヤしたままの何かがあってさ。
それを無視してるうちに、どんどん自分が「空っぽ」になってく感じ、するよね。
この前、コンビニでおにぎり買った帰り道、信号待ちしてたら、ふと「私、何のために生きてるんだろう」って頭の中に浮かんできたんだ。
別に病んでたわけじゃないのに。天気もよかったし、おにぎりだって美味しそうだったのにさ。
でも、その瞬間に「哲学」って言葉がポンって、頭の中に降ってきた。
哲学って聞くとさ、「なんか難しそう」とか「おじさんが考えてるやつ」みたいなイメージあるじゃん?
でも、その日以来、私はちょっとずつ哲学にハマりはじめた。
というか、気づいたら“引きずり込まれてた”って感じ。
哲学ってね、「生きるのが上手じゃない人」が自然と惹かれていくものなのかもしれない。
ちゃんと生きられない不器用な人たちのために、ずっと昔から存在してたのかも。
だってさ、普通に生きてるだけなら、「生きる意味」なんて考えなくても済むもん。
でも私たちは考えちゃう。
生きる意味も、幸せの定義も、自分の存在も。
そしてその「問い」こそが、もうすでに哲学なんだよね。
2. 友達が言ったんだ、「もう疲れた」って。
その日、深夜1時すぎだったかな。
久しぶりに会った友達と電話してたんだ。
LINEじゃなくて、ちゃんと声で話すの、なんか懐かしくてさ。
最初は他愛もない話だったんだけど、ふとした沈黙のあとに、彼がぽつりとこう言った。
「なんかもう、疲れたんだよね」
その瞬間、空気が変わった気がした。
あぁ、この子、今ほんとに限界なんだって。
言葉にはしてないけど、心が音を立てて壊れてるみたいだった。
私は何も言えなかった。
「無理しないでね」っていうには軽すぎるし、
「頑張れ」なんて、もっと最悪だと思ったから。
で、しばらく沈黙してから私が言ったのが、
「…ねぇ、哲学って知ってる?」
今思えば、タイミング最悪だったかもしれない。
でも、彼はちょっとだけ笑ったんだよね。
「おまえ、また変なこと言い出したな」
そう言いながら、少しだけ声が明るくなった。
で、そこから話したんだ。「ニーチェ」って人がね、「絶望こそが、人生を深くする」って言ってたんだよって。
絶望にちゃんと目を向けた人にしか見えない世界があるって、そんな話をした。
彼は黙って聞いてたけど、途中で「それ、いいな」って一言だけ返してくれた。
その言葉が、すごく優しく響いたんだよ。
私たちってさ、つい「正解」を探しちゃうじゃん?
仕事で成果出すとか、恋愛でうまくいくとか、SNSでいいねもらうとか。
でもほんとは、そんなのどうでもよくて、
「自分の苦しみを、ちゃんと見てあげること」が大事なんだと思う。
哲学って、そういうものかもしれない。
誰かのためにじゃなくて、自分の痛みに向き合うための言葉たち。
だからね、私は思うんだ。
「もう疲れた」って言えること、それがもう哲学の入り口なんじゃないかなって。
3. 「なんで生きてるの?」の問いが止まらない夜に。
電気を消して、布団に入った瞬間。
スマホの画面を見つめるのも飽きて、通知ももう来なくて、
真っ暗な天井を見つめながら、ふと思う。
「…私、なんで生きてるんだっけ?」
この問い、やばいよね。
一度考え始めると、なかなか抜け出せない沼。
どれだけポジティブになろうとしても、
「何のために?」って声が脳内に響いてくる。
私だけかなって思ってたけど、実はこれ、
昔の偉人たちも、何千年も前からずーっと同じこと考えてたんだって。
パスカルっていう数学も哲学もできちゃう天才がいてね、
その人が言ってたの。「人間は考える葦である」って。
ちっぽけで弱い存在だけど、“考える力”だけはあるって意味。
この言葉、めっちゃ好きなんだ。
だってさ、夜中に孤独な気持ちで泣きそうになってる私も、
実はパスカルと同じように“哲学してる”ってことじゃん?
意味なんて見つからないかもしれない。
でも、「なぜ?」って問うことができる。それだけで、私たちは立派な哲学者なんだよ。
不安とか虚無感って、一見するとただのマイナスに見えるけど、
実はそれが“考えるきっかけ”になってるんだよね。
この世界に生まれてきて、ちゃんと生きようとするからこそ、
こういう問いが頭をよぎる。
「なんで生きてるの?」って、すごく重いけど、
本気で自分と向き合う姿勢でもあるんだ。
だから私たちはきっと、間違ってない。
苦しんでるのも、悩んでるのも、それだけ本気で生きてる証拠。
ねぇ、もし今この瞬間、
「私の人生って意味あるのかな?」って思ってたら、
それはもう立派な“哲学者デビュー”だよ。
ようこそ、思考の迷宮へ。
ここにはマップなんてないけど、
ちゃんと歩いていけば、どこかにはたどり着けるから。
4. 哲学者ってさ、変な人たちの集まりでしょ?
正直に言うと、私ね、最初は「哲学者=ちょっと頭おかしい人」って思ってた(笑)
だって、誰も答え出せてない“人生”とか“存在”とかを、延々と語り続けてるんだよ?
しかも、時には命懸けで。
でも、調べれば調べるほど思ったんだよね。
「…あ、この人たち、めちゃくちゃ人間っぽいな」って。
たとえば、ソクラテス。
「無知の知」とか「問答法」とかで有名だけど、本人めっちゃ皮肉屋だったらしいよ。
街を歩きながら、いろんな人に絡んでは「本当にそれ正しいと思う?」って問い詰めてたらしい。
いや、それただのウザ絡みおじさんじゃん
でも、彼がすごいのは、知識を“教える”んじゃなくて、
“自分で考えること”の大切さを伝えようとしてたところ。
「先生が正解を与える」んじゃなくて、「あなたの中に答えがあるよ」って導く姿勢。
…なんか、今の教育にもめっちゃ必要な視点じゃない?
それからニーチェ。
「神は死んだ」で有名だけど、実はめちゃくちゃ繊細で孤独な人だった。
一生独身で、友達も少なくて、日記には“世界に絶望している”って書いてた。
でも彼は、その絶望の中で、「それでも生きる」って選んだんだよ。
彼の名言で私が好きなのは、
「深淵をのぞき込むとき、深淵もまたこちらをのぞき込んでいる」
これ、ゾクッとするでしょ?
自分の中にある闇と向き合うとき、
その闇もまた、自分を見てるって感覚。
うん、怖い。でも、めちゃくちゃリアル。
で、極めつけはディオゲネス。
この人、哲学者の中でも異端中の異端。
「人間らしく生きる」とか言って、
街の樽の中で生活してたらしい。
犬みたいに生きることを美徳としたから、“犬の哲学者”って呼ばれてたんだよ?
ある日、アレクサンダー大王が「何か望みはあるか?」って聞いたら、
彼はこう言ったんだって。
「そこ、日陰になってるから、どいてくれる?」
…やばない?かっこよすぎん?
彼らの生き方を見てるとね、哲学って「頭の良さ」じゃないんだって思う。
むしろ「どれだけ本気で人生に向き合ったか」が問われてる感じ。
他人から見たら変人。
でも、その変さの中にしか見えない世界がある。
だから私は今、心のどこかでちょっと思ってる。
「変人になれるくらい、本気で生きてみたいな」って。
5. 哲学って、答えじゃなくて「ドア」なんだよ。
昔の私は、ずっと“正解”が欲しかった。
どうすれば幸せになれるか、どうすれば愛されるか、
どうすれば不安を消せるか——そういう「これさえ分かればOK」ってやつ。
だから、本屋で自己啓発本とかビジネス書とか、めっちゃ読んでた。
タイトルも派手だし、「結論」ってハッキリ書いてくれてるし、
安心感あるんだよね。読み終わったあと、「私、分かった気がする」ってなる。
…でも、しばらくすると、また不安になってた。
なんでだろう?
その理由に、哲学がそっと教えてくれた気がしたんだ。
哲学ってね、「答え」をくれないの。
代わりに、「ドア」をくれる。
どういうことかって言うとさ、
「こうしなさい」じゃなくて、「こういう考え方もあるよ」って世界を見せてくれるんだよね。
そこに足を踏み入れるかどうかは、自分次第。
ちょっと怖いよ。
だって、保証はないし、ゴールも見えないし。
でも、自分で歩いたその一歩にだけ、
“本物の理解”って宿る気がするんだ。
たとえば、こんな感じ。
「人生は苦しみである」
これはブッダの教え。
「人生は滑稽である」
これはカミュの実存主義。
「人生はゲームである」
これは現代哲学者たちの一部の考え方。
ね? 全部違うけど、どれも“視点のドア”なんだよ。
どのドアを開けるかで、世界の見え方が変わってくる。
私は今も、たまに「どのドアも正解じゃない気がする…」って不安になることある。
でもその度に思うんだ。
「正解じゃなくて、自分が納得できるドアを選べばいいんじゃない?」って。
正しさより、納得。
他人の答えより、自分の問い。
それが、哲学が教えてくれた一番大事なことかもしれない。
6. 自分を見つける旅、みたいなもん。
哲学ってさ、外の世界を分析するための学問だと思ってた。
社会とか、人間の本質とか、宇宙の真理とか。
だけど、読めば読むほど気づいてきたんだよね。
「あ、これって、自分のことを見つける旅じゃん」って。
たとえば、デカルト。
「我思う、ゆえに我あり」ってやつ。
最初聞いたときは「え、何それ? 意味不明」って思った(笑)
でも彼は、本気で世界を疑い始めたんだよ。
目に見えてるもの、聞こえるもの、人間関係、すべてを疑った先に、
「それでも考えてる自分だけは確かに存在する」っていう、
“最後の一点”を見つけた。
…なんか、めっちゃ孤独じゃない?
でもそれって、私たちも日常的にやってる気がする。
たとえば失恋したときとかさ。
「私って、なんだったんだろう」って問いが、急に襲ってくるじゃん?
その問いの中で、自分をぐちゃぐちゃに疑って、
でも、そこで諦めないで探し続けたときにだけ、
“本物の自分”に出会える瞬間があるんだよね。
哲学って、“自分探し”に似てる。
というか、むしろ“それそのもの”。
しかも、自分を探すって、めっちゃ怖い。
だって、知らなくていい自分まで見えちゃうから。
弱さとか、ずるさとか、逃げ癖とか。
でも、不思議なんだよ。
そういう“ダメな自分”を見つけて、
「それでもいいか」って少しずつ許せるようになってくると、
不思議と、生きるのがちょっとだけラクになる。
哲学はね、自分を責めるためのものじゃなくて、
「そのままのあなたでいい」って静かに言ってくれる存在なんだ。
誰かに“こうなれ”って言われるんじゃなくて、
“自分はどう在りたいか”を、自分自身に問う旅。
遠回りに見えるけど、
実はこれが、一番まっすぐな道だったりする。
7. 難しい言葉ばっかでムカつくけどさ、
もうさ、言わせて。
哲学書、マジでムズい!!!
「存在の存在性が存在的に存在するとき~」みたいなやつ、
なにその“存在連打”!?意味わかんないし、こっちは混乱で存在消えそうなんだけど!?
読むたびに脳みそしびれるし、
1ページ読むのに10分以上かかるとかザラ。
下手すると1行読んだだけで放心状態だよ。
あれはもはや活字のバトルだよ。
いや、知能の筋トレか?いや、精神の荒行か???
でもね…
ムカつくけど、読んでるとたまに「バキッ!!」って何かがハマる瞬間があるんだよ。
それこそ、「ああ……これ、私のことだ……」って思うような言葉。
意味もわからないまま読み進めてたページの中に、
急に“心の深部”を撃ち抜くような一文が、隠れてるの。
たとえば、ハイデガー。
彼の言葉に、こんなのがある。
「死に向かう存在として、人間は本来的である。」
いや、急にこわっ!でも、ちょっと待って…
これ、実はめちゃくちゃリアルじゃない?
私たちって、無意識に「永遠に続く日常」だと思って生きてるけど、
ほんとは“限られた時間”の中で、
「いま、どう生きるか?」って問われ続けてる存在なんだよね。
他にも、カントの本なんて、
一文が3段落くらいの超長文で、読んでるこっちが息切れするレベル。
だけど、そこにあるのは、「人間ってどうすれば自由でいられるか?」っていう
真剣すぎる問いだったりする。
なんかもう、泣けてくるんよ。
哲学者たちはみんな、“めちゃくちゃ考えすぎた人たち”なんだよ。
悩んで悩んで、考えて考えて、
それでも答えなんて出ないって知ってるのに、
それでも言葉を絞り出した人たち。
その言葉は、読むのはムズいけど、
受け取れたときの衝撃とあたたかさは、
どんな自己啓発書にも勝る。
だから私は今日も、
ムカつきながら、笑いながら、
たまに涙を流しながら、哲学書を読む。
8. 哲学は、孤独じゃないって気づかせてくれる。
孤独ってさ、厄介だよね。
誰かと一緒にいても、
ふいに感じるあの“ぽっかり”した感じ。
街の雑踏の中で、ひとりだけ取り残された気分になったり、
好きな人といても、「分かってもらえてない」って思っちゃったり。
SNSには人が溢れてるのに、
なんでこんなに寂しいんだろうって思う瞬間、あるでしょ?
そんなとき、私は哲学に救われた。
だって、昔の哲学者たちも、
みーんな同じように「孤独」を感じてたんだよ。
たとえば、キルケゴール。
彼は「人間は絶望する存在だ」と言い切った。
でも同時に、「その絶望の中にこそ、ほんとうの自分がいる」とも言った。
絶望してる自分を責めなくていい。
むしろ、それが“本気で生きてる証拠”なんだって。
それを聞いたとき、泣きそうになった。
いや、実際ちょっと泣いた(笑)
哲学って、孤独な人たちの“叫び”の集まりかもしれない。
「誰にも分かってもらえない」って気持ちを、
言葉にして、言葉にして、言葉にして…
どうにかこうにか残してきたのが哲学書なんだと思う。
だから、それを読む私たちもまた、
孤独の中にいる誰かと“心の奥で繋がってる”気がするんだよね。
私は今でも、ときどき落ちる。
深夜、無性に寂しくなって、
布団の中でまるまって、心がきゅってなる日がある。
でも、そんなときに思い出すんだ。
「あ、キルケゴールもこんな夜を越えてたのかな」って。
それだけで、少しだけ、気が楽になる。
私ひとりじゃないんだって思えるから。
哲学は、“答え”はくれないかもしれないけど、
“共感”と“時間を越えたつながり”はくれる。
孤独って、思い込みなのかもしれないね。
だって、今こうしてあなたと私も、
文章を通して、ちゃんと繋がってるじゃん。
9. で、結局「生きる意味」ってなんなのよ?
この問い、何度も頭をよぎったことない?
「生きる意味ってなんだろう」
「私ってなんのためにここにいるんだろう」
そんなの考えたって意味ないって分かってても、
ふと気を抜いた瞬間に、また戻ってきちゃう。しつこいくらいに。
でさ、私は思うんだよ。
この「問い」そのものが、すでに私たちを生かしてるんじゃないかって。
哲学者たちも、ずーーーっとこのテーマを追いかけ続けてる。
ヴィクトール・フランクルって人がいるんだけど、
この人、ナチスの強制収容所を生き延びた心理学者で哲学者でもあったの。
で、彼がたどり着いたのはこういう言葉だった。
「人生の意味は、“問い続けること”にある。」
これさ、希望でもあるけど、ちょっと残酷でもあるよね。
つまり、「明確な答えなんて、ない」ってことでもあるから。
でも、よく考えると救いでもあるのかもしれない。
だってもし、「これが人生の正解です!」って誰かに言われたら、
ちょっと…つまんなくない?
どこへ行くかも分からない旅だからこそ、
迷ったり、立ち止まったりしながら、
「自分だけの意味」をちょっとずつ探していく——
それってすごく、“生きてる”って感じしない?
私は思う。
人生に意味があるかどうかって、
どっかに“用意された正解”があるかどうかじゃなくて、
「自分がどう意味づけするか」なんだよね。
恋人にフラれても、それを「無駄だった」と思うか、
「自分を知るチャンスだった」と意味づけるか。
仕事を辞めたときも、「失敗した」と感じるか、
「新しい扉が開いた」と思うか。
どっちを選ぶかは、自分次第。
つまり、生きる意味って“つくるもの”なんだ。
毎日のなかで、
誰かと笑ったり、泣いたり、悩んだり、
そういう瞬間の積み重ねが、
気づいたら「生きる意味」になってる。
しかもそれって、人それぞれ全部ちがってていい。
あなたが誰かと手をつないだ、そのぬくもりだって、
ちゃんと「意味」なんだよ。
だから、こう言いたい。
生きる意味が見つからなくても、
いまここにいるあなたは、
すでに「意味ある存在」だよって。
問い続けること、それ自体がもう“生きてる証”だから。
10. 最後にさ、伝えたいことがある。
ねぇ、ここまで読んでくれて本当にありがとう。
こんなにも長く、感情と哲学とちょっとした毒と情緒をぐるぐる詰め込んだ文章、
正直、読むのめっちゃ疲れたと思う(笑)
でも、そんなあなたが今ここにいること。
それが、私にとってすでに“奇跡”だなって思うんだ。
哲学って、難しい言葉で書かれてるけど、
その奥にあるのは、ただただ“人間の声”なんだよね。
誰かに分かってほしかった。
自分の痛みを意味づけたかった。
この世界の意味が知りたかった。
その思いが、何百年、何千年も前から、
ずーっと受け継がれてきてる。
私たちは、その延長線上に生きてる。
きっとこれからも、
意味が見えない夜は来ると思う。
突然泣きたくなる日もあるだろうし、
「もう無理かも…」って思っちゃうときだってある。
でも、覚えててほしい。
その“苦しみ”も“問い”も、
全部まるごと、哲学は受け止めてくれるってこと。
正しさなんていらない。
かっこよく生きる必要もない。
ただ、あなたがあなたのままで、
「考え続ける」こと。
それだけで、人生はすでに意味を持ち始めてる。
哲学はね、遠くの誰かが語る理屈じゃないんだ。
いま、あなたの心の中にもあるんだよ。
その問いこそが、証明なんだ。
「私はどう生きたいのか?」
それにちゃんと向き合ってるあなたは、
もうすでに、立派な“哲学者”なんだと思う。
だから最後にもう一度、言わせて。
あなたの人生に、意味はある。
それはまだ形になっていないかもしれない。
でも、あなたが“考え続けるかぎり”、
その意味は、これからも生まれ続ける。
だから、大丈夫。
今日も、生きててくれて、ありがとう。