ねぇ、哲学ってさ、生きづらい人ほどハマるって知ってた?

☕1. 最近、ふと思ったんだよね。

ねぇ、たまにない?
ふと立ち止まって、「私、なんでこんなに頑張ってるんだろう?」って思っちゃう瞬間。
仕事もそこそここなしてるし、周りから見ればちゃんとしてる「大人」かもしれない。でも、心のどこかにずっと、モヤモヤしたままの何かがあってさ。
それを無視してるうちに、どんどん自分が「空っぽ」になってく感じ、するよね。

この前、コンビニでおにぎり買った帰り道、信号待ちしてたら、ふと「私、何のために生きてるんだろう」って頭の中に浮かんできたんだ。
別に病んでたわけじゃないのに。天気もよかったし、おにぎりだって美味しそうだったのにさ。
でも、その瞬間に「哲学」って言葉がポンって、頭の中に降ってきた。

哲学って聞くとさ、「なんか難しそう」とか「おじさんが考えてるやつ」みたいなイメージあるじゃん?
でも、その日以来、私はちょっとずつ哲学にハマりはじめた。
というか、気づいたら“引きずり込まれてた”って感じ。

哲学ってね、「生きるのが上手じゃない人」が自然と惹かれていくものなのかもしれない。
ちゃんと生きられない不器用な人たちのために、ずっと昔から存在してたのかも。
だってさ、普通に生きてるだけなら、「生きる意味」なんて考えなくても済むもん。

でも私たちは考えちゃう。
生きる意味も、幸せの定義も、自分の存在も。
そしてその「問い」こそが、もうすでに哲学なんだよね。


💬2. 友達が言ったんだ、「もう疲れた」って。

その日、深夜1時すぎだったかな。
久しぶりに会った友達と電話してたんだ。
LINEじゃなくて、ちゃんと声で話すの、なんか懐かしくてさ。
最初は他愛もない話だったんだけど、ふとした沈黙のあとに、彼がぽつりとこう言った。

「なんかもう、疲れたんだよね」

その瞬間、空気が変わった気がした。
あぁ、この子、今ほんとに限界なんだって。
言葉にはしてないけど、心が音を立てて壊れてるみたいだった。

私は何も言えなかった。
「無理しないでね」っていうには軽すぎるし、
「頑張れ」なんて、もっと最悪だと思ったから。

で、しばらく沈黙してから私が言ったのが、

「…ねぇ、哲学って知ってる?」

今思えば、タイミング最悪だったかもしれない。
でも、彼はちょっとだけ笑ったんだよね。

「おまえ、また変なこと言い出したな」

そう言いながら、少しだけ声が明るくなった。
で、そこから話したんだ。「ニーチェ」って人がね、「絶望こそが、人生を深くする」って言ってたんだよって。
絶望にちゃんと目を向けた人にしか見えない世界があるって、そんな話をした。

彼は黙って聞いてたけど、途中で「それ、いいな」って一言だけ返してくれた。
その言葉が、すごく優しく響いたんだよ。


私たちってさ、つい「正解」を探しちゃうじゃん?
仕事で成果出すとか、恋愛でうまくいくとか、SNSでいいねもらうとか。
でもほんとは、そんなのどうでもよくて、
「自分の苦しみを、ちゃんと見てあげること」が大事なんだと思う。

哲学って、そういうものかもしれない。
誰かのためにじゃなくて、自分の痛みに向き合うための言葉たち。

だからね、私は思うんだ。
「もう疲れた」って言えること、それがもう哲学の入り口なんじゃないかなって。

🌧3. 「なんで生きてるの?」の問いが止まらない夜に。

電気を消して、布団に入った瞬間。
スマホの画面を見つめるのも飽きて、通知ももう来なくて、
真っ暗な天井を見つめながら、ふと思う。

「…私、なんで生きてるんだっけ?」

この問い、やばいよね。
一度考え始めると、なかなか抜け出せない沼。
どれだけポジティブになろうとしても、
「何のために?」って声が脳内に響いてくる。

私だけかなって思ってたけど、実はこれ、
昔の偉人たちも、何千年も前からずーっと同じこと考えてたんだって。

パスカルっていう数学も哲学もできちゃう天才がいてね、
その人が言ってたの。「人間は考える葦である」って。
ちっぽけで弱い存在だけど、“考える力”だけはあるって意味。

この言葉、めっちゃ好きなんだ。
だってさ、夜中に孤独な気持ちで泣きそうになってる私も、
実はパスカルと同じように“哲学してる”ってことじゃん?

意味なんて見つからないかもしれない。
でも、「なぜ?」って問うことができる。それだけで、私たちは立派な哲学者なんだよ。


不安とか虚無感って、一見するとただのマイナスに見えるけど、
実はそれが“考えるきっかけ”になってるんだよね。

この世界に生まれてきて、ちゃんと生きようとするからこそ、
こういう問いが頭をよぎる。

「なんで生きてるの?」って、すごく重いけど、
本気で自分と向き合う姿勢でもあるんだ。


だから私たちはきっと、間違ってない。
苦しんでるのも、悩んでるのも、それだけ本気で生きてる証拠。

ねぇ、もし今この瞬間、
「私の人生って意味あるのかな?」って思ってたら、
それはもう立派な“哲学者デビュー”だよ。

ようこそ、思考の迷宮へ。
ここにはマップなんてないけど、
ちゃんと歩いていけば、どこかにはたどり着けるから。

📖4. 哲学者ってさ、変な人たちの集まりでしょ?

正直に言うと、私ね、最初は「哲学者=ちょっと頭おかしい人」って思ってた(笑)
だって、誰も答え出せてない“人生”とか“存在”とかを、延々と語り続けてるんだよ?
しかも、時には命懸けで。

でも、調べれば調べるほど思ったんだよね。
「…あ、この人たち、めちゃくちゃ人間っぽいな」って。

たとえば、ソクラテス
「無知の知」とか「問答法」とかで有名だけど、本人めっちゃ皮肉屋だったらしいよ。
街を歩きながら、いろんな人に絡んでは「本当にそれ正しいと思う?」って問い詰めてたらしい。
いや、それただのウザ絡みおじさんじゃん🤣

でも、彼がすごいのは、知識を“教える”んじゃなくて、
“自分で考えること”の大切さを伝えようとしてたところ。
「先生が正解を与える」んじゃなくて、「あなたの中に答えがあるよ」って導く姿勢。
…なんか、今の教育にもめっちゃ必要な視点じゃない?


それからニーチェ
「神は死んだ」で有名だけど、実はめちゃくちゃ繊細で孤独な人だった。
一生独身で、友達も少なくて、日記には“世界に絶望している”って書いてた。
でも彼は、その絶望の中で、「それでも生きる」って選んだんだよ。

彼の名言で私が好きなのは、

「深淵をのぞき込むとき、深淵もまたこちらをのぞき込んでいる」

これ、ゾクッとするでしょ?
自分の中にある闇と向き合うとき、
その闇もまた、自分を見てるって感覚。
うん、怖い。でも、めちゃくちゃリアル。


で、極めつけはディオゲネス
この人、哲学者の中でも異端中の異端。
「人間らしく生きる」とか言って、
街の樽の中で生活してたらしい。
犬みたいに生きることを美徳としたから、“犬の哲学者”って呼ばれてたんだよ?

ある日、アレクサンダー大王が「何か望みはあるか?」って聞いたら、
彼はこう言ったんだって。

「そこ、日陰になってるから、どいてくれる?」

…やばない?かっこよすぎん?


彼らの生き方を見てるとね、哲学って「頭の良さ」じゃないんだって思う。
むしろ「どれだけ本気で人生に向き合ったか」が問われてる感じ。

他人から見たら変人。
でも、その変さの中にしか見えない世界がある。

だから私は今、心のどこかでちょっと思ってる。
「変人になれるくらい、本気で生きてみたいな」って。

🚪5. 哲学って、答えじゃなくて「ドア」なんだよ。

昔の私は、ずっと“正解”が欲しかった。
どうすれば幸せになれるか、どうすれば愛されるか、
どうすれば不安を消せるか——そういう「これさえ分かればOK」ってやつ。

だから、本屋で自己啓発本とかビジネス書とか、めっちゃ読んでた。
タイトルも派手だし、「結論」ってハッキリ書いてくれてるし、
安心感あるんだよね。読み終わったあと、「私、分かった気がする」ってなる。

…でも、しばらくすると、また不安になってた。

なんでだろう?


その理由に、哲学がそっと教えてくれた気がしたんだ。

哲学ってね、「答え」をくれないの。
代わりに、「ドア」をくれる。

どういうことかって言うとさ、
「こうしなさい」じゃなくて、「こういう考え方もあるよ」って世界を見せてくれるんだよね。
そこに足を踏み入れるかどうかは、自分次第。

ちょっと怖いよ。
だって、保証はないし、ゴールも見えないし。
でも、自分で歩いたその一歩にだけ、
“本物の理解”って宿る気がするんだ。


たとえば、こんな感じ。

「人生は苦しみである」
これはブッダの教え。

「人生は滑稽である」
これはカミュの実存主義。

「人生はゲームである」
これは現代哲学者たちの一部の考え方。

ね? 全部違うけど、どれも“視点のドア”なんだよ。
どのドアを開けるかで、世界の見え方が変わってくる。


私は今も、たまに「どのドアも正解じゃない気がする…」って不安になることある。
でもその度に思うんだ。
「正解じゃなくて、自分が納得できるドアを選べばいいんじゃない?」って。

正しさより、納得。
他人の答えより、自分の問い。

それが、哲学が教えてくれた一番大事なことかもしれない。

🪞6. 自分を見つける旅、みたいなもん。

哲学ってさ、外の世界を分析するための学問だと思ってた。
社会とか、人間の本質とか、宇宙の真理とか。
だけど、読めば読むほど気づいてきたんだよね。

「あ、これって、自分のことを見つける旅じゃん」って。


たとえば、デカルト
「我思う、ゆえに我あり」ってやつ。
最初聞いたときは「え、何それ? 意味不明」って思った(笑)

でも彼は、本気で世界を疑い始めたんだよ。
目に見えてるもの、聞こえるもの、人間関係、すべてを疑った先に、
「それでも考えてる自分だけは確かに存在する」っていう、
“最後の一点”を見つけた。

…なんか、めっちゃ孤独じゃない?

でもそれって、私たちも日常的にやってる気がする。
たとえば失恋したときとかさ。
「私って、なんだったんだろう」って問いが、急に襲ってくるじゃん?

その問いの中で、自分をぐちゃぐちゃに疑って、
でも、そこで諦めないで探し続けたときにだけ、
“本物の自分”に出会える瞬間があるんだよね。


哲学って、“自分探し”に似てる。
というか、むしろ“それそのもの”。

しかも、自分を探すって、めっちゃ怖い。
だって、知らなくていい自分まで見えちゃうから。
弱さとか、ずるさとか、逃げ癖とか。

でも、不思議なんだよ。
そういう“ダメな自分”を見つけて、
「それでもいいか」って少しずつ許せるようになってくると、
不思議と、生きるのがちょっとだけラクになる。


哲学はね、自分を責めるためのものじゃなくて、
「そのままのあなたでいい」って静かに言ってくれる存在なんだ。

誰かに“こうなれ”って言われるんじゃなくて、
“自分はどう在りたいか”を、自分自身に問う旅。

遠回りに見えるけど、
実はこれが、一番まっすぐな道だったりする。

🧠7. 難しい言葉ばっかでムカつくけどさ、

もうさ、言わせて。
哲学書、マジでムズい!!!😤

「存在の存在性が存在的に存在するとき~」みたいなやつ、
なにその“存在連打”!?意味わかんないし、こっちは混乱で存在消えそうなんだけど!?

読むたびに脳みそしびれるし、
1ページ読むのに10分以上かかるとかザラ。
下手すると1行読んだだけで放心状態だよ。
あれはもはや活字のバトルだよ。
いや、知能の筋トレか?いや、精神の荒行か???


でもね…
ムカつくけど、読んでるとたまに「バキッ!!」って何かがハマる瞬間があるんだよ。

それこそ、「ああ……これ、私のことだ……」って思うような言葉。
意味もわからないまま読み進めてたページの中に、
急に“心の深部”を撃ち抜くような一文が、隠れてるの。

たとえば、ハイデガー
彼の言葉に、こんなのがある。

「死に向かう存在として、人間は本来的である。」

いや、急にこわっ!でも、ちょっと待って…
これ、実はめちゃくちゃリアルじゃない?

私たちって、無意識に「永遠に続く日常」だと思って生きてるけど、
ほんとは“限られた時間”の中で、
「いま、どう生きるか?」って問われ続けてる存在なんだよね。


他にも、カントの本なんて、
一文が3段落くらいの超長文で、読んでるこっちが息切れするレベル。
だけど、そこにあるのは、「人間ってどうすれば自由でいられるか?」っていう
真剣すぎる問いだったりする。

なんかもう、泣けてくるんよ。

哲学者たちはみんな、“めちゃくちゃ考えすぎた人たち”なんだよ。
悩んで悩んで、考えて考えて、
それでも答えなんて出ないって知ってるのに、
それでも言葉を絞り出した人たち。


その言葉は、読むのはムズいけど、
受け取れたときの衝撃とあたたかさは、
どんな自己啓発書にも勝る。

だから私は今日も、
ムカつきながら、笑いながら、
たまに涙を流しながら、哲学書を読む。

🫂8. 哲学は、孤独じゃないって気づかせてくれる。

孤独ってさ、厄介だよね。

誰かと一緒にいても、
ふいに感じるあの“ぽっかり”した感じ。
街の雑踏の中で、ひとりだけ取り残された気分になったり、
好きな人といても、「分かってもらえてない」って思っちゃったり。

SNSには人が溢れてるのに、
なんでこんなに寂しいんだろうって思う瞬間、あるでしょ?


そんなとき、私は哲学に救われた。
だって、昔の哲学者たちも、
みーんな同じように「孤独」を感じてたんだよ。

たとえば、キルケゴール
彼は「人間は絶望する存在だ」と言い切った。
でも同時に、「その絶望の中にこそ、ほんとうの自分がいる」とも言った。

絶望してる自分を責めなくていい。
むしろ、それが“本気で生きてる証拠”なんだって。
それを聞いたとき、泣きそうになった。
いや、実際ちょっと泣いた(笑)


哲学って、孤独な人たちの“叫び”の集まりかもしれない。

「誰にも分かってもらえない」って気持ちを、
言葉にして、言葉にして、言葉にして…
どうにかこうにか残してきたのが哲学書なんだと思う。

だから、それを読む私たちもまた、
孤独の中にいる誰かと“心の奥で繋がってる”気がするんだよね。


私は今でも、ときどき落ちる。
深夜、無性に寂しくなって、
布団の中でまるまって、心がきゅってなる日がある。

でも、そんなときに思い出すんだ。

「あ、キルケゴールもこんな夜を越えてたのかな」って。

それだけで、少しだけ、気が楽になる。
私ひとりじゃないんだって思えるから。


哲学は、“答え”はくれないかもしれないけど、
“共感”と“時間を越えたつながり”はくれる。

孤独って、思い込みなのかもしれないね。
だって、今こうしてあなたと私も、
文章を通して、ちゃんと繋がってるじゃん。

🌈9. で、結局「生きる意味」ってなんなのよ?

この問い、何度も頭をよぎったことない?
「生きる意味ってなんだろう」
「私ってなんのためにここにいるんだろう」
そんなの考えたって意味ないって分かってても、
ふと気を抜いた瞬間に、また戻ってきちゃう。しつこいくらいに。

でさ、私は思うんだよ。

この「問い」そのものが、すでに私たちを生かしてるんじゃないかって。


哲学者たちも、ずーーーっとこのテーマを追いかけ続けてる。
ヴィクトール・フランクルって人がいるんだけど、
この人、ナチスの強制収容所を生き延びた心理学者で哲学者でもあったの。

で、彼がたどり着いたのはこういう言葉だった。

「人生の意味は、“問い続けること”にある。」

これさ、希望でもあるけど、ちょっと残酷でもあるよね。
つまり、「明確な答えなんて、ない」ってことでもあるから。

でも、よく考えると救いでもあるのかもしれない。


だってもし、「これが人生の正解です!」って誰かに言われたら、
ちょっと…つまんなくない?

どこへ行くかも分からない旅だからこそ、
迷ったり、立ち止まったりしながら、
「自分だけの意味」をちょっとずつ探していく——
それってすごく、“生きてる”って感じしない?


私は思う。
人生に意味があるかどうかって、
どっかに“用意された正解”があるかどうかじゃなくて、
「自分がどう意味づけするか」なんだよね。

恋人にフラれても、それを「無駄だった」と思うか、
「自分を知るチャンスだった」と意味づけるか。

仕事を辞めたときも、「失敗した」と感じるか、
「新しい扉が開いた」と思うか。

どっちを選ぶかは、自分次第。


つまり、生きる意味って“つくるもの”なんだ。

毎日のなかで、
誰かと笑ったり、泣いたり、悩んだり、
そういう瞬間の積み重ねが、
気づいたら「生きる意味」になってる。

しかもそれって、人それぞれ全部ちがってていい。

あなたが誰かと手をつないだ、そのぬくもりだって、
ちゃんと「意味」なんだよ。


だから、こう言いたい。

生きる意味が見つからなくても、
いまここにいるあなたは、
すでに「意味ある存在」だよって。

問い続けること、それ自体がもう“生きてる証”だから。

🔚10. 最後にさ、伝えたいことがある。

ねぇ、ここまで読んでくれて本当にありがとう。
こんなにも長く、感情と哲学とちょっとした毒と情緒をぐるぐる詰め込んだ文章、
正直、読むのめっちゃ疲れたと思う(笑)

でも、そんなあなたが今ここにいること。
それが、私にとってすでに“奇跡”だなって思うんだ。


哲学って、難しい言葉で書かれてるけど、
その奥にあるのは、ただただ“人間の声”なんだよね。

誰かに分かってほしかった。
自分の痛みを意味づけたかった。
この世界の意味が知りたかった。

その思いが、何百年、何千年も前から、
ずーっと受け継がれてきてる。
私たちは、その延長線上に生きてる。


きっとこれからも、
意味が見えない夜は来ると思う。

突然泣きたくなる日もあるだろうし、
「もう無理かも…」って思っちゃうときだってある。

でも、覚えててほしい。
その“苦しみ”も“問い”も、
全部まるごと、哲学は受け止めてくれるってこと。

正しさなんていらない。
かっこよく生きる必要もない。
ただ、あなたがあなたのままで、
「考え続ける」こと。
それだけで、人生はすでに意味を持ち始めてる。


哲学はね、遠くの誰かが語る理屈じゃないんだ。
いま、あなたの心の中にもあるんだよ。
その問いこそが、証明なんだ。

「私はどう生きたいのか?」

それにちゃんと向き合ってるあなたは、
もうすでに、立派な“哲学者”なんだと思う。


だから最後にもう一度、言わせて。

あなたの人生に、意味はある。
それはまだ形になっていないかもしれない。
でも、あなたが“考え続けるかぎり”、
その意味は、これからも生まれ続ける。

だから、大丈夫。

今日も、生きててくれて、ありがとう。

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